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ホーム > 技術情報 > 「テレビの父」高柳健次郎 > 高柳健次郎の足跡

技術情報

「テレビの父」高柳健次郎

高柳健次郎の足跡

1899年(明治 32)1月20日、静岡県浜松市生まれ。


幼い頃の「無線」との出会い

  • 幼少時は、体が弱く勉強も苦手だったが、機械に興味を持ち、模型づくりに熱中。
  • 小学3年生の頃、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモに感銘。13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知る。その後の高柳健次郎と「無線」との結びつきの始まりだった。

「コツコツ努力」の大切さ知る

  • 高等小学校の恩師の指導で、「どんなに難しい問題でも懸命に考え、コツコツ努力すればわかる」ことに気づき、学ぶ喜びを知る。
  • 恩師のようにと教員への道を志し、浜松準教員養成所(1年)、静岡師範学校(4年)を修了するが、さらに物理学研究への志望がつのる

1918年(大正 7)東京高等工業学校(現東京工業大学)入学


「10年先・20年先を目指せ」の教え

  • 卒業間近、同校電気科長の中村幸之助教授(後初代東京工業大学学長)訓話に激励される。

「お前たちには将来、国家のお役に立つような人間になってほしいが、今流行っていることをやりたがってはだめだ。将来の日本になくてはならないものを見出し、今からコツコツ積み上げて勉強しなさい。そうすれば石の上にも3年、いや10年・20年同じことをやれば、必ずひとかどの技術者になれる。ちょうどその時に世の中のお役に立てるのだ。」

1921年(大正 10)同校卒業

神奈川県立工業学校 教諭


「無線遠視法」の着想

1923年(大正 12)年初の頃、「有線の電話で声が伝わるのならば、顔や姿も伝わって見えるようになるのではないか。いや、ラジオ放送が遠くから無線で声を送れるのならば、映像だって無線でやれる理屈ではないか」と考え、これに「無線遠視法」と名づける。

*この年、米国ではサーノフがテレビ放送時代を予測。別の所ではツヴォルィキン博士が高柳と同じ電子方式のテレビ研究を開始。

*9月1日、浜松に帰省中、関東大震災。

1924年(大正 13)浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授

本格的にテレビの研究を開始。

当時研究が始まっていた機械式でなく、電子式によるテレビ開発に目標を決める。受像機に、当時物理の測定器に使われていたブラウン管の利用を思いつく。 1925年(大正14)3月、日本でラジオ放送開始。


「イ」の字のブラウン管受像に成功

1926年(大正 15)12月25日、ブラウン管による電送・受像に初めて成功。送像側にニポー円盤(機械式)、受像側にブラウン管(電子式)を用い、「イ」の字を送受像。

*この日、大正天皇が崩御、昭和が始まる


先行する機械式にも電子式への自信揺るがず

1928年(昭和 3)5月、東京で動く被写体の受像実験をデモンストレーション。 (当時、テレビ研究の世界的な主流は機械式で、国内外で高柳の実験よりきれいな画像を映せるところまで来ていたが、高柳は将来は電子式だけが成功すると力説、研究を続ける。)


天覧

1930年(昭和 5)5月、天皇陛下の静岡来訪時に、直径30センチのブラウン管によるテレビジョン実験天覧。これを機会に教授に昇格、「テレビジョン研究施設」としての予算計上、大勢の研究員を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現。

12月、テレビ撮像管発明。

1932年(昭和 7)浜松市で走査線100本の画像の研究用実験放送。郊外で受信に成功。


「チーム研究」で初の全電子式テレビを完成

1935年(昭和 10)11月、浜松高工式アイコノスコープによる撮像管とブラウン管を用いた、走査線220本の全電子式テレビジョン完成。「このアイコノスコープの共同研究は、わが国の産業技術の研究開発史上おそらく最初の、短期間に実質的な成果につながったプロジェクトチームと言ってよいのではないかと思う」(高柳)。


東京五輪のテレビ中継目指し、NHK入り

1937年(昭和 12)8月、NHK技術研究所(東京・砧)にテレビジョン部長として出向。目的は、昭和15年の開催が決まった東京オリンピックのテレビ中継放送を準備すること。

浜松高工の研究員20名を引き連れ、他に加わった技術者や新採用の人員等総勢190人余のスタッフが集まる。

(翌年7月、日中全面戦争突入など国際情勢緊迫で、東京オリンピック開催返上決定。テレビ本放送計画も取り止めに。)


「人工天才」

*この頃、米国のある文献に載っていた「人工天才」という論文を読み、感銘を受ける。そこには、「昔は1人2人の天才によってのみ、ゆっくりと進めることしかできなかった独創的な研究や開発が、これからは技術者がチームをつくり協力して仕事を行うことにより、早いスピードで可能になる」という予見と提言が記されており、高柳はこれ以後「その主旨を体して仕事を行って参りました」(昭和 47年の社内の若手技術者に向けた資料冒頭の紹介のことば)という。

1939年(昭和 14)5月、NHK砧技研の高さ100mの鉄塔から東京一円に電波を飛ばす、日本初のテレビジョン公開実験。


戦時体制下、海軍技師に徴用

(1941/昭和 16年12月、太平洋戦争勃発。テレビ研究禁命令。海軍技師としてレーダーや電波兵器の研究に徴用される。)

(1945/昭和 20年8月、終戦。NHKに戻ってテレビの研究を再開。海軍で一緒に研究をしていた青年士官のうち30数人のNHKへの採用を決めていたところ、GHQから一切の研究禁止、軍部の仕事に従事していた者の公共事業への就職禁止を通告される。)


日本ビクターへ

1946年(昭和 21)7月、技術者20数人とともに日本ビクターに入社、ビクターにいた10人ほどのテレビ研究者と合流。

  • テレビジョン研究部長として、直ちに研究を再開。
  • 8月、「テレビジョン同好会」(昭和 25年(社)日本テレビジョン学会に発展・改組)を創設、会長。

1949年(昭和 24)日本電子機械工業会(EIAJ)テレビジョン技術委員長としてのGHQに対する執拗な説得が奏効して、試験研究用の電波(NHKとメーカー共同使用の1チャンネル)使用許可を獲得。

1950年(昭和 25)7月、日本ビクター 取締役技師長就任

11月、NHKテレビ定時実験放送開始

1951年(昭和 26)通産省工業生産技術審議会委員就任

1952年(昭和 27)NHK放送文化賞受賞


不本意だった6メガ・7メガ論争の決着

1952年(昭和 27)日本のテレビ放送標準方式の検討で、カラー化を視野に入れた周波数7メガヘルツ幅の採用を主張(NHK、EIAJの関係者間で合意)。

しかし郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案準拠を主張、結局、アメリカ技術が優秀との先入観と早期事業化への便宜を優先した「6メガ派」が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となる。

* 「あまりに近視眼的な決定」と残念がる。白黒テレビ時代が始まろうという時点で、将来のカラー化、高精細画像化までをも視野に入れた標準化を提案していたのだった。 後々まで、現行のNTSC方式について「今でも、ひどくなまったテレビ画面を見るたびに、もしそのとき7メガヘルツを採用していれば…と残念に思う」といった発言が見られる。

1953年(昭和 28)2月、NHKテレビ本放送開始。8月、日本テレビ(初の民放)放送開始。

3月、日本ビクター 常務取締役就任

1955年(昭和 30)4月、紫綬褒章受章

郵政省電波技術審議会委員就任

1956年(昭和 31)12月、NHKカラーテレビ実験放送開始


日本のカラーテレビを世界最高水準に

  • 昭和30年代を通じて、カラーテレビ改良に尽くす。日本のカラーテレビを世界最高水準のレベルに高め、代表的輸出商品としての急成長に貢献。

ポストカラーテレビ、VTRを開発

1959年(昭和 34)2ヘッドVTR開発(世界初)。ここでもプロジェクトチーム方式が結実。

1960年(昭和 35)放送用2ヘッドカラーVTR開発

1961年(昭和 36)5月、国際無線通信連合(ITU)第1回世界TV祭(スイス・モントルー)で、RCA のサーノフ氏とともに功労者表彰を受ける。
このとき、会場で2ヘッドVTRを展示・説明し、好評を得る。

11月、日本ビクター 専務取締役就任(昭和 37/11.代表取締役専務)

1963年(昭和 38)4月、世界最小VTR「KV200」開発

1965年(昭和 40)5月、(社)電子通信学会(現(社)電子情報通信学会)名誉員就任 1969年(昭和 44)4月、勲三等瑞宝賞受章

1970年(昭和 45)11月、日本ビクター 代表取締役副社長就任

1973年(昭和 48)11月、日本ビクター 技術最高顧問就任

1974年(昭和 49)2月、科学放送振興協会理事長就任

11月、勲二等瑞宝賞受章

1976年(昭和 51)日本ビクター、VHSビデオ開発。10月、第1号機「HR−3300」発売。

高柳の薫陶を受けた野鎭雄氏(当時ビデオ事業部長)が「一企業の利益追求でなく、世界にビデオ文化を花開かせるのだ」という強い信念に発したリーダーシップを発揮、VHSの普及戦略を展開。

1980年(昭和 55)11月、文化功労者表彰受賞

1981年(昭和 56)11月、文化勲章受章

1984年(昭和 59)10月、高柳記念電子科学技術振興財団設立。理事長就任。

1987年(昭和 62)7月、米国アラバマ州立大学名誉教授 浜松市名誉市民

1988年(昭和 63)10月、米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に日本人初の推挙。

11月、静岡大学名誉博士。

1989年(平成 元)4月、勲一等瑞宝賞受章

1990年(平成 2)7月23日、死去(享年91歳)。